The Bramah Museum of Tea & Coffee
 
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History of Tea | Equipment for Making Tea | Procedure for Making Tea
 
*注意*歴史の章の翻訳はおおまかな概略です
正確に深くお知りになりたい方は英語本文をご覧下さい.

茶の文化は中国が発祥の地だということはご存知でしょう. 茶を飲む文化が中国から日本へ伝わりました.日本にも立派な茶の湯文化が確立され様々な道具や作法が生み出されていったのです.日本の僧侶が中国へ修行に出て帰国後1191年に茶の種をまいたという話もあります.日本茶や中国茶,ウーロン茶などの半発酵茶も含めてこれらは全て同じ茶の木からできるものなのです.

Tea Clipperポルトガル宣教師が初めてヨーロッパに茶を飲む文化を伝えたのは1560年頃でした.その後まもなくリスボンに茶が到着しました.

オランダ人商人がヨーロッパ市場に売り出すため初めて中国から茶を持ち帰ったのは1610年のことです.その持ち帰った船荷の中には陶器があり,ティーポットも入っていました.この陶器文化は中国から伝わったものなのです.17世紀になるとオランダに持ち込まれる陶器の数はどんどん増え茶を飲むということが大流行になりました.

イギリスに紅茶が流行り始めたのはその後遅ればせながら17世紀後半になってからのことです.
イギリスでは1665年にペストが流行し翌1666年にはロンドン大火災に見舞われました.ロンドンの人たちは焼けつくされた町から少し離れたところの,テムズ川近くにできたレジャーガーデンという場所に新鮮な空気を求めてこぞって出かけたものでした.そこで皆は次のことに初めて気がついたのです.茶を淹れるということは,水を沸かさなくてはならないもので,その方が安全に茶を楽しめるものだと...
Londoner's enjoying tea
珈琲も同じ時期にロンドンで愛飲されていました.しかし珈琲より紅茶の方が準備が簡単だという理由も手伝って皆からとても愛されていたようです.

18世紀頃までには中国の茶や茶道具を持っているということがイギリスの貴族や中流階級にとってはその身分の証でもありました.

1689年から1964年まではイギリス全土で茶税が課されました.植民地のアメリカでも同様に課税された為1773年にアメリカ商人の怒りを買ってしまいました.課された重税に反抗したアメリカ人は終いにボストン港に停泊中の東インド会社の茶の船荷をごっそり海に投げこんでしまったのでした.しかもインディアンに変装して.この事件はボストン茶会事件として有名になったので皆さんもうご存知でしょう.イギリス本土でも皆がこの重税から逃れようとして結果,皆が茶の密輸をするようになりました.もちろんロンドン港に合法的に荷をおろす船もありましたが,密輸船のほとんどがロンドン港を避けた結果,アイルランド,スコットランド,他のイギリス地域に茶を運び込むことになったのです.
The industrial revolutoin
産業革命が起こって紅茶は非常に大事なものだと考えられました.茶は安くてノンアルコールでミルクと砂糖と一緒に混ぜて飲むものだったのです.工場での長時間労働に耐えるため,又,労働者の体力維持や補給に紅茶は欠かせない存在となりました.

19世紀までにはイギリス全土で紅茶が絶大な人気となりました.その結果として中国との紅茶貿易のバランスが崩れていきました.東インド会社はインドで栽培したアヘンで紅茶の支払いを代替するようになり,アヘンをクリッパー(高速帆船)で密輸するようになったのです.このアヘン貿易はその後1839年から1842年のイギリス中国間で起きたアヘン戦争へ発展していきました.

一方でアヘン戦争勃発よりもちょっと前の,1788年に東インド会社はジョゼフバンクス氏に働きかけ,インド北東部で茶を栽培できるかどうかを検討しはじめていました.実際のところインド,アッサム地方に野性の茶が自生していたのですが,1815年まで誰一人としてその茶の存在に気が付かず,中国から密輸してきた茶の木を植えて育てていました.

それまでアヘンを運んでいたクリッパー(高速帆船)は今度は紅茶を運ぶために運用されるようになりました.中国からイギリスへの毎年恒例のクリッパーレースは伝説的なものとなったのです.Tea Clipperもっとも有名なレースは1866年のもので,中国をスタートした3艘の船が同じタイムでロンドンにゴールしたのでした.積んでいた茶はテムズ川沿いの埠頭でおろされました.とりわけブラマー博物館近くのSt Katherine埠頭やHays埠頭に荷が降ろされたという記録が残っています.

インドで栽培されるようになった紅茶は中国茶や日本茶よりもはるかに長期間にわたって収穫することが可能です.イギリスのプランター達(植樹者)は伝統的手法に頼らずより効果的な生産ができるように機械化を導入することにしました.1867年からはセイロン(現スリランカ)でも栽培されるようになり,そのあおりを受けイギリスと中国との茶貿易は次第に衰退していったのです.イギリス人はより濃くてモルティーな紅茶がお好みになり,それまでの中国からお茶の味はもはや流行りではなくなってしまったのです.紅茶はその後19世紀後半からアフリカでも栽培されるようになりました.

インドで収穫される茶葉の質は季節によってもまちまちでかなりの格差が出ました.紅茶の味と価格を一定に保つため各紅茶会社は異なった季節に摘んだ茶葉を混ぜあわせオリジナルブレンドを打ち出したのです.館長エドワードブラマーも1950年に紅茶貿易に携わってから,この伝統的なブレンド作業の特訓を積み一流ブレンダーとしてのキャリアーを築いてきたのです.

1900年頃までには4000もの紅茶会社がインドの北部南部に建てられ,2000もの会社がスリランカに建てられ,ほとんどの紅茶がそこからロンドンのティーオークションにかけられたのです.ロンドンMincing Lane と言えば紅茶貿易のワールドセンターとして誰もが知る場所になりました.Tea picking in India

第2次世界大戦中,紅茶の供給が著しく脅かされ国民的ドリンクである紅茶の貿易が政府の手に委ねられることになりました.そして紅茶が配給が始まったのです.1952年には政府の支配から逃れると今度は紅茶貿易が新たな危機にさらされたのです.

それはインスタント珈琲という強烈なライバルなのでした.インスタント珈琲が急速な勢いで売れ始めた為その対抗馬として紅茶のティーバッグが考え出されました.これは皆様がよくご存知のように誰でもあっという間に茶を抽出できるものです.しかしティーバッグの出現は本来持っている紅茶の風味と性質をすっかり変えてしまったのです...


ブラマー博物館では地図,図案,写真などを展示しながら英国の紅茶の伝統や歴史を説明し,具体的に図解して解説しております.喫茶部門では上質な茶葉を使用した本物の紅茶をお届けしています.現在,この国の人々の実に90%以上がティーパッグを日常的に使用しているのは本当に残念でなりません.
英国に古くから伝わる方法で淹れた,リーフティーの本物の味を是非ご賞味くださいませ.